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突然ですが、体のパーツを褒められたことはあるだろうか。よくあるとすれば、「足が長い」とか「肌がきれい」とか、そういったものだろうか。「美人ですね」とか「イケメンですね」と面と向かって言われることはそうそうないだろう(実際そうだとしても)。顔の造作に対する評価というのは、なかなかセンシティブでもあるし、個人の美的感覚にも左右される。仮に美形だなと思って、正面切って褒めてみても、おそらく怪訝な顔をされるのがおちである。とはいえ、世の美男美女たちにしてみれば、直接言葉にされなくても、視線を感じることは日常茶飯事なのかもしれない。それは、その立場になってみなければわからない。開業してからというもの、広告やホームページに自分の顔を出すようになった。そのせいか、初診の患者さんから「なんだか写真と違いますね」と言われることが時折ある。別に、昔のプリクラのように加工しているわけではないのだけれど、どんなニュアンスが込められているのか測りかねて、「そうは言われましても」ともごもごしながら曖昧に笑うしかない。
でも不思議なことに、昔から指だけはよく褒められた。昔、中学時代にギターの授業があった。期末試験では、先生の前で一対一の演奏をしなければならなかった。課題曲は自由、J-POPの弾き語りでもクラシックの独奏でも構わなかった。同級生たちは果敢にミスチルやスピッツに挑戦していたけれど(ああ、あの『ロビンソン』のイントロのアルペジオ練習…)、音痴の僕にはとてもそんな勇気はなかった。僕はいたって真面目に、ナルシソ・イエペスになりきって『禁じられた遊び』を演奏した。ところが、演奏後、その出来栄えについては何も触れられず、「指がギターに映えるね」とだけ言及された。その後も、入院患者さんの点滴を入れるときや、外来で話をしながらカルテをタイピングしているときなど、こちらがまったく身構えていない瞬間に、指について言及されることが何度かあった。肌が男性にしては妙に白いせいかもしれない。もっとも、爪はいつも深爪ぎみに切っているし、数年前に盛大に転倒したときには右手の指を剥離骨折して、少しいびつな形にもなった。しみじみ眺めてみても、まったく感興は湧かない。
さて、世の中には、特定のパーツだけを専門にするモデルという仕事があるらしい。手や脚はもちろん、目、唇、耳、髪など、その種類は実にさまざまだ。パーツモデル専門の芸能事務所もあり、手なら「手タレ」、脚なら「足タレ」と呼ばれるらしい。マツコ・デラックスじゃないけれど、世の中には、本当に知らない世界があるのだ。しかし、それはそれで気苦労が絶えないのではないかとも思う。ファッションモデルのように総合的に評価されたり、全体にまとう雰囲気や表情などもなく、ただ一点の造形の美しさだけを磨き上げなければならないのだから。考えてみれば、体操競技における個人総合と種目別競技の違いのようなものかもしれない。床運動や鉄棒、平行棒や跳馬。その一種目だけを究める世界である。あるいは、ひとつでも飛び抜けて美しいパーツを持っていれば、それは静かな自信につながるのかもしれない。そして、それを磨き続けることも、案外苦ではないのかもしれない。
村上春樹(たびたび出てきてすみません)の小説には、女性の耳についての描写がたびたび登場する。『羊をめぐる冒険』には、いつも耳を隠していたガールフレンドが、髪を束ねて初めて主人公に耳を見せる場面がある。
「どう?」
僕は息を呑み、呆然と彼女を眺めた。口はからからに乾いて、体のどこからも声は出てこなかった。白いしっくいの壁が一瞬波打ったように見えた。店内の話し声や食器の触れ合う音がぼんやりとした淡い雲のようなものに姿を変え、そしてまたもとに戻った。波の声が聞こえ、懐しい夕暮の匂いが感じられた。しかし、それらは何もかもほんの何百分の一秒かのあいだに僕が感じたもののほんの一部にすぎなかった。(『羊をめぐる冒険』)
これほどのパーツを持っているなら、話は別である。どうやら、その耳は時間や空間の感覚まで歪めてしまうほどの威力を持っていたらしい。もはや『呪術廻戦』の「領域展開」に近い。『呪術廻戦』の強い呪術師・呪詛師たちは、呪力を解放するときに印象的な手印を結ぶ。子どもたちが真似をしている、あれだ。もともとは仏教、なかでも密教に由来するものだという。密教では、手に印を結び、口に真言を唱え、心に仏を思い描く。それぞれを身密、口密、意密と呼び、この三つを合わせて「三密」(コロナではありません)と呼ぶ。仏像を見ても、手の形は実にさまざまだ。掌を見せるもの、指で輪を作るもの、両手を組み合わせるもの。それぞれに意味が込められている。私たちは仏像の穏やかな表情(アルカイック・スマイル)ばかりに目を奪われがちだけれど、仏たちは言葉を語らない代わりに、指や掌を通して何かを伝えようとしているのかもしれない。そう考えると、人の手元に自然と目が向くのは、日本人の習性なのだろうか。
娘たちは、近所のネイルサロンの前を通るたびに、ガラス越しに中をのぞき込み、ネイリストの方に手を振る(迷惑)。そして「大きくなったらやってみたい」と言う。もっとも、普段から爪をいじる癖があるので、今のところはなかなか痛々しい状態なのだけれど。「いいんじゃないかな」と僕は答える。そこでふと、最近はネイルサロンに通う男性客が増えているというニュースを思い出した。男性の場合、派手なネイルを施すのではなく、甘皮を整えたり、表面を磨いたりするらしい。営業職などでは、それが会話のきっかけになることもあるという。美容室ですら、最初はずいぶん勇気が必要だった。ましてやネイルサロンの扉を開けるとなれば、僕にとってはアイガー北壁に挑むようなものである。もっとも、娘たちが大きくなった頃には、そんな感覚もすっかり時代遅れになっているのかもしれない。そうなれば、父も一緒に行くことになるのだろうか。
いつか気づいた方がいたら、そのときは爪を褒めてください。当面は予定ありませんけれど。