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子どもが生まれてからほとんどテレビを見なくなった。子どもと一緒にアニメや映画を見ることはあっても、なんとなくテレビをつけてザッピングして目ぼしい番組を眺めるなんてことはなくなった。夜はなかなか家事が捗らないため、朝5時に起きて動くようになったのが大きい(妻はもっと早い)。その代わり、二人とも子供と一緒によく寝落ちしてしまう。いわゆるテレビのゴールデンタイムは、穏やかな消灯に向けて計画的にことを進める時間帯であり、わんちゃかしたバラエティなどはつけていられない。親の睡眠時間を確保するためにも、しかるべき時間に寝てもらう必要がある。そのために必要なのは日々のリズムでありルーチーンであり、「今クールの月9は推しの俳優が出ているので外せないわ」というわけにはいかないのだ。結論、正直テレビを見なくても困らない。
ただ毎年この時期だけは少しテレビを視聴する時間が増える。撮りためておいたNHKスペシャルの戦争特集を見るためだ。今年は戦後80年、昭和100年。戦争は、いつからだろうか、僕の関心の中心にあった。高校の世界史の授業で、NHKの『映像の世紀』を視聴する機会があった。そこが起点となっているのかもしれない。テーマ曲となっている加古隆の「パリは燃えているか」、その旋律は希望と不穏が入り混じり、胸を締めつける。教科書で学ぶ現代史は退屈だけれど、創作ではない白黒の映像記録は生々しく、映し出される20世紀は欲望がむきだしでどこまでも暴力的だった。今でも大好きなドキュメンタリーだ。
高校の先生方は少し変わっていた。世界史の授業の過半が、そんな風に番組の視聴や生徒発表に費やされた。現代文の先生にしても、『薔薇の名前』(ウンベルト・エーコ原作)とか『東京物語』(小津安二郎監督)とか『リリィ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督)とか、わざわざ授業をつぶしてこれぞという映画の視聴に当てていた。僕は、東京物語で原節子を知り、リリィで蒼井優を知った(ちなみに山田洋次監督の『東京家族』は東京物語へのオマージュだが、そこには原節子はいないかわりに蒼井優がいる)。『薔薇の名前』なんてセクシャルなシーンもあるわけだけど、構わず教室で見せていたし、そんなことしたら健全な男子高校生にとってはエーコの記号論どころではなくなってしまう。体育の先生においては、性行為中にコンドームが破けて婦人科受診に付き添いその後交際が破局に至った、という自身の高校時代のエピソードを披露することで、生徒を戦慄させた。
かつての級友と同窓会で会うと、話題になるのはそんな変わった先生方のことだ。「あのときは(みな授業中に床に落ちているジャンプ読んだりエロ本読んだり塾の宿題の内職にいそしんだりしていたせいで)よくわからなかったけど、今考えればいい授業していたよな」と偉そうに言う。大学受験に即効性のある教育なんて度外視して、子供たちにいつ芽が出すかもよくわからない種をまく。そこは予備校や塾とは大きく異なるところだし、その当時教壇に立っていたその先生方が今の僕より若かったことを考えると、一層感慨深い。教員に自由な裁量が委ねられた学校だった。思えば医学科の授業よりよほど刺激的だったけど、それを理解するには当時の僕たちはあまりに生意気で無知だった。
戦争の話に戻る。トム・ソーヤーで知られるマーク・トウェインは「歴史は繰り返さないが韻を踏む」といった。今日本で僕たちが享受している平和は安定したものだろうか。それは上に凸の二次曲線の頂点に置かれたボールのような安定かもしれない。ちょんと押されたら転げ落ちてしまう。タモリは黒柳徹子との対談で、今を新しい戦前と表現した。80年前と同じように、『火垂るの墓』で清太と節子がカルピスやそうめんを囲んだ食卓が、直後の空襲に蹂躙されたように、普段の何気ない日常生活の足元には深い川が流れている。誰もそれに気づかないだけで。
僕は政治的に行動的な人間ではないし、声を上げようという場に居合わせたら眉をひそめてしまうかもしれない。ただ、いかなる戦争にも、それを容認する雰囲気にも与しない。それを直接的に表出することは僕の得意とするところではないが、一介の市民としてささやかに抵抗したいと思っている。大きな声の人間を信用しないこと。わからないことがあればすぐ余所に答えを求めず、腑に落ちるまで頭の片隅に置き続けられる知的な体力を養うこと(これも高校の数学教師が教えてくれた)。そして泌尿器科医の僕ができることといえば、戦中を経験された方々が余生を安らかに送れるように尽力することだ。
もう退官されたが、かつて僕が所属していた泌尿器科教室の教授は、「人間は息が止まったり心臓が止まったりして死ぬんじゃない。その前におしっこが出なくなって死ぬんだ。」と授業で言った。そう断言するのはいささか剣呑だし、実際いきなり心臓が止まって死んでしまう人だっているけれど、穏やかに死へ向かう過程においては大方事実だ。腎不全や排尿障害は確実に人の身体を蝕む。であれば、死ぬまで安寧におしっこくらいはできるようお手伝いしたいと思っている。80歳を超えてくると、合併症や年齢を理由に手術適応も乏しくなり、ラディカルな治療は困難となって方針も固定化してくることが多い。治療者側も患者側も、まあ不便だけど年齢も年齢だし今のままでも仕方ないかと考えるようになる。特に外来が混みあっていて担当医が代わりやすい総合病院では、その傾向は顕著だ。でもふとこのままでいいのかしらと思ったら、お気軽にご相談いただければと思う。一緒に知恵を絞ってみましょう。