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床屋考
院長ブログ
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2025/07/14 院長のひとり言
床屋考

髪をどこで切るかというのは大きな問題である。正確には、僕にとってつい最近まで懸案事項であり続けたというのが正しい。この問題に悩まずに済んでいる方は、ある意味で小さな勝者だと思う。

 

幼少の頃は母に連れられて、近くの床屋で切ってもらっていた。最近よく見かけるチェーン店などはない時代で、個人経営の小さな店である。ケーシーに身を包んだ床屋の旦那さんが僕の髪を切っている間、奥様と母がずっと世間話をしていた。髪を切られる時間は退屈だけれど、子どもながらに顔剃りは気持ちいいと思っていた。陶器のシェービングマグカップで石鹸を泡立てて、スチームタオルで顔を蒸してもらい、シェービングブラシで泡を顔になじませ、一枚刃で顔全体の産毛も剃ってもらう。この一連の幸福は理容室でなければ味わえない。

 

しかし思春期になると、なんとなく地元の床屋に行くのが格好悪いと感じるようになり、自分で美容室を探すようになる。美容室。この響きは中高生男子には重い。初めて美容室の敷居をまたぐときの緊張感は、男子しかわからないだろう。常連の女性のお客さんに闖入者としてにらみつけられるのではないかという恐怖に耐えながら扉を開けると、嗅いだことのない整髪料の匂い、手を通せるケープ(床屋では手を出せないのでてるてる坊主のようになる)、施術中に出てくるコーヒーと目の前に積み上げられるファッション誌、これらでも十分に衝撃的であるが、極めつけが仰向けで顔を洗ってもらうという事実。顔を向く方向がまさしく180度違うのだがら、カルチャーショックである。それでも、好きだったシェービングを捨ててでも、美容室に通わなければならない理由がたぶん当時にはあった。親への従属に対する小さな反抗という意味でも。

 

色気を出してワックスをつけるようになると同時に、定型というものを見失った髪型は、長くなっては短くなり、七三分けになってみては刈り上げてツンツンに立ててみたり、安定を欠いてダッチロールを繰り返すようになる。大学の頃からは、バーバーと言ったほうがしっくりくるようなおしゃれな床屋が都心にできるようになり、美容室からは脱却した。しかし床屋に戻っても、「今日はどうしますか」への回答から(どうしたらいいのか)、そこまで注文していないのに攻めすぎる仕上がりから、泌尿器科医と知ると気を利かせて振ってくる下ネタから、いろいろなものに疲れてくると、ふと立ち止まって思うわけである。はて、何を求めていたんだっけ。新たなお店を探すたび、宿命的になにがしかの欠落があり、その欠落は落ち着かない気持ちにさせた。でも仕方ない。それは床屋だけじゃないのだ。仕事を選ぶにしても、住まいを決めるにしても、若かりし頃のお付き合いにしても、同じことだ。

 

僕の理想は、軽く会釈をして、眼鏡を外して座ったら、会話も天気のことくらいで、BRUTUSとかUOMOとか今ここでは読みたくないし、あとは目をつぶってしまってよくて、できれば下を向いて髪を洗って、最後にしっかりシェービングしてほしい、というものだったということに気づくのに、長い時間がかかった。もちろん、これはあくまで僕の勝手な望みだ。でも僕も外科医の端くれ。刃を人に向けるという職業には敬意を抱いている。互いに無言でハサミの小気味良い音だけが耳元で響く、温かな手を添えられながら滑らかに顔の上を刃が走る、そんな時間を心の底から希求していたのだ。

 

今は息子も娘も同じ床屋さんにお世話になっているが、ありがたいことに穏やかな時間を過ごすことができている。理想の床屋さんとの出会いは僥倖とも言ってもいいくらい素敵なことだと思う。でも、すでに髪の長さにうるさい娘は美容室がいいとか早晩言い出すだろうし、息子も難しい時期に突入すると床屋から距離を取るようになるかもしれない。それでもいい。心理学者エリクソンの言を借りれば、青年期の大きな発達課題は「床屋の確立」ということになるし、また孔子も良いことを言っている。四十にして(床屋に)惑わず。

 

たぶん息子もひとしきり苦い思いを経験するだろう。そしていつか、いたって普通の地元の床屋に戻ってくるのである。十勝川の鮭とか、四万十川のウナギのように。太平洋で揉まれ、かつての場所に遡上してくる。ここでいいじゃないかと納得できるまで20年くらいかかるかもしれない。それまで温かい目で、子どもの髪型の迷走を見守るのが親のつとめと思っている。大袈裟かもしれないけれど。