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医師の条件
院長ブログ
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2025/08/06 院長のひとり言
医師の条件

 

巷の医師へのインタビューは、だいたい決まって「どうして医師を目指したのですか」という質問で始まる。居酒屋のお通しのようなものである。親族・家族、あるいは自身の闘病や看病経験のエピソードがよく並ぶ。親が医師である場合は、診療に向かう姿を見て育った――そんな話も多い。こうした回答がそこはかとなく期待されているのも理解できる。一方で、「狂信的な教育ママによって受験戦争にほうりこまれ、偏差値もまあ悪くなかったので医学部に行きました」とは答えてはならない。特段耳目を引くエピソードもない僕にとっては紛れもない事実で、もしインタビューを受けるならそう返答するしかないけれど。実際医学生の中でも同様のケースは少なくないかもしれないが、それを胸を張って開陳してよいかと言われると微妙なところだろう。行動の背景に大志を伴うべしというのが、日本という国柄なのかもしれない。

 

そこで話は少しさかのぼる。昔、兵庫県の宝塚という地に住んでいた。宝塚歌劇団がある宝塚だ。宝塚音楽学校の学生が整然と列をなして歩き、タカラジェンヌがサングラスをかけて颯爽と歩き、その周りを親衛隊が固める。スーパーもどこかハイソで、レジではきれいに紙袋に詰めてもらえる。宝塚大劇場と宝塚ホテルを中心とする瀟洒な街並に、歩けば近くには温泉があり裏山があり、大きな川も流れる、閑静な街だった。小学1年の夏、マンションのベランダから武庫川の花火を見ていた。そのシーンはよく覚えている。なぜなら、その直後に盛大に嘔吐したからだ。40度の発熱が数日続き、寝転んで見る視界はぐるぐると回転していたし、天井に虫みたいなものが絶えず動いているように見えた。母におぶられて小児科医院にも行った。おそらく程度の重いウイルス性胃腸炎だったのだろう。でも1週間後にはすっかり回復して、夏休み中だったこともあり、親戚の家がある函館にひとりで行ってきた。今もあるのかわからないけれど、こどもパイロットとかいう子供ひとりで飛行機に乗れるサービスを使って。

 

ひとしきり久しぶりの函館を満喫して、いざ伊丹空港に戻るという段になって、異変に気づいた。陰茎と陰嚢が、強烈に痛がゆいことに。機上のトイレに駆け込んで確認すると、赤く腫れているではないか。排尿するにも痛い。これは結構まずいことになったと、空港で待っていた母にすぐに報告した。ちんちんがえらいことになっていると。すぐに宝塚市立病院に連れて行かれた。過日、市内の夫婦が254億円を寄付して、建て替え費用に充てられると最近ニュースになったあの病院だ。泌尿器科では今の僕と同世代であろう医師が診察に当たった。診察台に寝かされ、陰部を観察すると、おもむろに銀色のハサミのようなものを取り出し、看護師と母に僕を押さえつけるように指示し、陰茎になんらかの処置を始めた。手足をがっちり固定されていたため僕からは見えないが、それがもう、とんでもなく痛いのである。陰茎がもぎとられているのではないかと思うくらい。ありったけの大声で泣き叫んだことだけは鮮明に覚えている。

 

医師になってからも、長らくあれが具体的にどんな処置だったのか、腑に落ちなかった。先生が「おなかの風邪が治った後に、ばい菌がおちんちんに下りてきちゃったんだな」という説明をしてくれたのを覚えているが、そのような経過をたどるとすれば、流行性耳下腺炎(おたふくかぜ)後に発症する精巣炎くらいであろう。でも僕の記憶する経過や所見は、おたふくかぜにも精巣炎にも該当しない。でも開業して小児の患者さんをよく診察するようになってから、ああこれだったのかと思い至るようになった。きっと重度の亀頭包皮炎になっていたのだ。おなかの風邪がどうこうというのは、子どもにもわかりやすい方便だったのだろう。包皮と亀頭の間にしっかり膿が溜まっている場合は、ただ軟膏の塗布や抗菌薬を処方するだけではなく、ある程度包皮を剥離して排膿させてあげた方が圧倒的に治りは早いし、治療後の癒着も防げて仕上がりも良い(実際には銀色のハサミで何かを切ったりはしません。きっと僕の記憶違い)。普段からきれいに包皮を剥けるようになれば、炎症の再燃も防げる。ただそのためには、その短い排膿処置の間、患児に頑張ってもらう必要がある。

 

あのときお世話になった先生は、年齢的にはそろそろ引退しているだろうか。なんの因果か、かつて僕自身が身をもって体験した処置を、あれから30年経過した今、患者さんに施している。最初の話に戻ると、あの経験が「医師を目指したきっかけ」には全くなっていないので(あんな思いをして泌尿器科医に憧れることはない)、仮にインタビューを受けたとしてもこの話を披露することもないだろう。でも処置中にひっそり、受け継いでいますよと心の中でつぶやく。たぶん同じ処置を受けた子どもたちの中には、鮮烈な記憶として残る子もいるだろう。彼らの多くはもう病院なんて来るもんかと怒っているかもしれない。でもその中のひとりくらいは(誤って)泌尿器科医になるのかもしれない。